山形県
立石寺(りっしゃくじ)
山形県山形市にある天台宗の仏教寺院。山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ[※ 1]」と称した。詳しくは宝珠山[1]阿所川院[2][3]立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。本尊は薬師如来。
蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されていて[4]、円仁が開山した四寺(他は中尊寺・毛越寺、瑞巌寺)を巡る「四寺廻廊」を構成しているほか、若松寺と慈恩寺を含めて巡る出羽名刹三寺まいりを構成する。
芭蕉 奥の細道像
「閑さや 巌にしみ入る 蝉の声」を詠んだ俳人 松尾芭蕉像。弟子の曾良像も立っています。
弟子の曾良の像
蔵王山お釜
- 御釜のあるエリアはカルデラであるが、その外輪山の東側は崩壊している。外輪山の尾根をたどると北側が「ロバの耳岩」(北緯38度8分32.7秒 東経140度27分17.4秒)辺りから西側の「馬の背」(北緯38度8分17.3秒
東経140度26分33.6秒)を経て南側の「刈田岳」(標高1758メートル。地図)に至るラテン文字の「C」、あるいは、馬蹄形になっている。この外輪山の内側に標高1674メートルの「五色岳」(北緯38度8分13.7秒 東経140度27分8.7秒)という中央火口丘(後カルデラ火砕丘)があり、この西側中腹に直径約400メートルの爆裂火口がある。この火口の底に水が溜まってできた火口湖が「御釜」である。
蔵王の火山活動は、約100万年前から始まったとする説があるが、少なくとも70万年前には始まっていたと考えられている。約3万年前には山体崩壊が発生してカルデラが形成された。その後、約3000年前から2000年前頃の活動で外輪山の東側が崩壊し、現在のような東側に開いたC形あるいは馬蹄形の形となった。約2000年前からは外輪山の内側での活動により中央火口丘である五色岳が形成された。当初の火口は、現在の五色岳の最高部の南側、現在の御釜の中心から見て南東方向にある窪地である(北緯38度8分4.2秒 東経140度27分8.1秒)。
上杉神社
山形県米沢市にある神社。松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。
以後、米沢城二の丸の法音寺を首席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。
併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。
明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。
大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により現在に残る社殿が再建された。
上杉謙信像
サクランボ狩り
さくらんぼは、生産者のたゆまぬ努力の結晶です。
寒さ厳しい冬。降り積もった雪で枝が折れないよう、丁寧に雪を払います。春に向かっていく2月頃、日当たりや風通しを良くするための剪定作業は欠かせません。また、3月には、手作業で花芽を間引いていきます。枝ひとつひとつ、樹一本一本、畑の隅々まで芽欠きを行う途方もない根気と、芽の良し悪しを見分ける経験知が必要とされる作業です。
花が咲く4月。花粉を運んでくれるミツバチやマルハナバチが活躍します。ただ、ハチはある程度の気温にならないと活動できないため、毛ばたきを使って人の手で受粉させていくことも不可欠です。
実をつける5月。大きさ、形、傷、日当たりなどで判断し、良いものだけを残して摘果。雨よけハウスや防鳥ネットで大切な実を守り、色付きを待ちます。
いよいよ収穫期に入る5月下旬から7月、農家は一番の繁忙期を迎えます。気温が上がらないうちに手早く、かつ慎重に収穫。粒ぞろいの実がぎっしりと美しく並ぶ箱詰めの熟練した技は、大きさのバラつきや配送中に傷が付かないための工夫から生まれました。
こうして、多くの手間暇がかけられ、山形のさくらんぼは全国に届けられているのです。